1965年にライオンズクラブの献血アクティビティは始まりました
  献血について
日本で最初の血液銀行が開設されたのは1952年のことですが、1960年になってもほぼ100%が売血で日本の献血はごくわずかなものでした。積極的な採血に乗り出したのは1961年からで、1964年にライシャワー駐日アメリカ大使が暴漢に刺され、輸血の際に血清肝炎を併発したことをきっかけに輸血受け入れ体制の整備が進みました。

ライオンズクラブの献血アクティビティは・・
1964年、東京都は武蔵野市に東京都赤十字血液銀行を設立。東京の全クラブはその状況に合わせて合同で移動採血車の購入資金の半額を負担しました。翌65年、山口県岩国市で開かれた302W-4地区(山口・島根・広島)の年次大会が「献血運動・花いっぱい運動」をACTのスローガンに採択したのが献血ACTの始まりです。その翌66年に誕生した東京秋葉原クラブが結成記念ACTとして献血を取り上げ、バス2台に会員家族と従業員140名を乗せ日赤中央血液センターへ乗り付けたとの記録も残っています。その後、1975年に同クラブは献血を訴えるCMを放送し、その年44,900本の受付数を達成。やがて日赤創設以来の採血新記録を樹立したとあります。335-C(京都・奈良・滋賀)と330-A(東京)では全クラブに献血委員会を置き「献血」を継続事業の一つに据えて活動しました。
1980年代末には全輸血量の約90%が成分輸血でまかなわれるようになりましたが、一方で薬害エイズ問題によって、世界の血漿の3分の1を消費し、しかも95%の輸入を頼る日本の血液事業の歪みが浮き彫りになり、厚生省は血漿の国内自給を提唱し成分献血推進がその骨子となりました。そうした中、京都平安ライオンズクラブの尽力で初の大型採漿ルームが京都市内に開設されました。
1987年7月、日本赤十字社では昭和天皇のご遺金を基に献血推進賞を創設。日本のライオンズ(ライオンズクラブ330〜337複合地区)が第一回受賞の栄に輝きました。
献血事業は全国のライオンズクラブが展開し、日本ライオンズの主要アクティビティとなっています。


335-B地区における昨年度(2013.7〜2014.4)の献血の実績は
受付数:成分/10,434人+200ml/3,629人+400ml/40,997人=20,032,800ml/55,060人で1,116回の活動でした。